美そあみか -bisoamika-

「5本の指に、いらない指はない」――私はなぜ、できなくてもやるんだろう

前回の記事の最後に、母が何度も話していた「5本の指」の話を書いた。

 

母が子どもの頃、

「私は可愛がられていない」

と拗ねたことがあったらしい。

すると祖父は、自分の手を見せて母に聞いた。

「この5本の指の中で、いらない指はどれだ?」

母は、「ない」と答えた。

祖父は、「だろう」と言った。

 

母は、この話を何度も何度も私にした。

 

私はずっと、

「親にとって、子どもはみんな大切なんだ」

という話だと思って聞いていた。

 

たぶん母も、そういう意味で話していたのだと思う。

 

でも、前回の記事を書きながら、ふと思った。

この話の中で使われている言葉は、

「好き」でも、

「愛している」でも、

「大切」でもない。

「いらない指はどれだ?」だった。

 

「大切」ではなく「必要」

 

もちろん祖父は、

母を傷つけようとして言ったわけではない。

むしろ逆だ。

 

「いらない子なんていない」

「どの子も同じように自分の子どもだ」

そう伝えたかったのだと思う。

 

母もきっと、その言葉に救われたから、

何十年も覚えていて、

今度は自分の子どもに何度も話したのだろう。

 

だから、この話が悪いと言いたいわけではない。

 

ただ、今になって気になった。

私はこの話を、いったい何回聞いたんだろう。

 

何十回?

もっと?

 

そのたびに、

「いらない指はない」

「どの指も必要」という話を聞いていた。

 

もしかすると、私は、知らないうちに、

「愛されているか、愛されていないか」よりも、

「必要か、必要じゃないか」

という物差しを持つようになったのかもしれない。

 

もちろん、わからない。

そんなに単純な話ではないだろう。

 

ただ、58歳になった今、

昔のことと今の自分を並べてみたら、

「あれ?」と思っただけ。

 

閑話休題

 

小学生の頃の私は、

明るくて誰とでもすぐ仲良くなるような子ではなかった。

むしろ、おとなしい。ほとんど話さない。

なのに、

 

お節介だった。 ……なんだそれ🤣

 

小学一年生のとき、

テスト中に隣の子がわからない問題を教えていて、

自分のテストができず、0点になったことがある。

 

… まず自分のテストをやって!🤣

 

でも、たぶん当時の私の中では、とてもシンプルで

 

困っている。

私が教えられる。

だから、教える。

 

「仲良くして」とは言えなくても、

「それ、こうだよ」ならできる。

 

「一緒に遊ぼう」とは言えなくても、

困っている人がいれば、そこには入っていける。

 

もしかすると、

「役に立つこと」は、

私にとって人とつながる方法だったのかもしれない。

 

……と、ここまでは前回の記事を書いたあと、

わりときれいに整理できた気がしていた。

 

ところが…

 

「できるからやる」じゃなかった! Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

私は最初、

自分のことをこう考えた。

 

できる。

だから、私がやる。

そして、私がやることが当たり前になっていく。

 

うん。

なんとなく、それっぽい。

 

家でも一番上で、できることを任されることが多かった。

できるから頼られる。

頼られるからやる。

それを繰り返して、

自分の役割になっていった。……と、思った。

 

そして、この第2回の記事を書いて、ブログに投稿する準備をしていたとき。

ふと気づいた。

 

いや、私、できなくてもやるじゃん。

 

…… へっ?

 

話が変わってきた🤣

 

できなかったら、できるようにする

 

よく考えてみたら、

私は、「自分にできることだから引き受ける」とは限らない。

 

必要なことがある。

誰かがやらなければならない。

誰もやらない。

じゃあ、やる。

 

できるかどうかは、そのあとだ。

知らなければ調べる。

わからなければ聞く。

やったことがなければ、とりあえずやってみる。

 

そして、

なんとかできるところまで持っていく。

 

だから結果だけ見ると、「あの人はできる」になる。

 

でも順番が違う。

 

できるから、やった。ではなく、

やることにしたから、できるようにした。

 

……こっちだ。

 

「できる」と「やる」ではなく、「必要」と「やる」

 

そう考えると、私の中でくっついているのは、

「できる」と「やる」ではないのかもしれない。

「必要」と「やる」。

 

必要なことがある。

やる。

できなければ、できるようにする。

そのうち、やることが当たり前になる。

 

この流れ。

 

なんだか、とても見覚えがある。

 

そして一度、「この人がやる」と思われるようになると、次からもやってくる。

前にできたから。今回もできるだろう。

 

そして私自身も、「まあ、がんばればできるだろう」と思う。

 

……。

 

こうして担当業務が増えていく… なんという循環💦

 

じゃあ、「必要」って何だろう

 

ここまで考えて、最初の「5本の指」に戻った。

 

「5本の指の中で、いらない指はどれだ?」

「ない」。

 

この話を聞いて、

私は「役に立たなければいらない」と教えられたわけではない。

 

そんなことを言われた記憶もない。

だから、「母や祖父のせいで、私はこうなった」という話ではない。

 

ただ…

「必要」という言葉を、

私は思っていた以上に、軸にしてきたのかもしれない。

 

必要なことがあるなら、やる。

必要とされるなら、応える。

誰もやらないなら、自分がやる。

 

それ自体は、私の日常。

 

誰かが困っていたら、できれば助けたい。

自分が知っていることが、誰かの役に立つのもうれしい。

折り紙を教えて、「できた!」と喜んでもらえるのも好きだ。

 

だから、これを全部やめたいわけではない。

ただ最近、少しだけ学習しなくちゃと思っていることがあるw

 

「必要なこと」と「(私が)やる」は、同じではない。

 

必要なことがあっても、私がやらなくていいこともある。

誰かが困っていても、私に余裕がなければ、手を出さないという選択もある。

 

できなくても頑張ってできるようにする。

それが必要なときもある。

でも、毎回それをやらなくてもいい。

 

……これを絶賛学習中🤣

 

そして改めて、祖父の「5本の指」の話を考えてみた。

「5本の指の中で、いらない指はどれだ?」

 

祖父が母に伝えたかったのは、

きっと、「どの子も大切なんだ」ということだったのだと思う。

 

母はその話を大切な思い出として、何度も伝えた。

そして、私は、それをずっと聞いてきた。

 

でも、もし今の私が、同じことを子どもに伝えるなら。

たぶん、こう聞く。

 

「5本の指の中で、大切じゃない指はどれ?」

 

答えは同じ。

「ない」。

 

でも、

「いらないものはない」と、

「大切じゃないものはない」は、

似ているようで、私には少し違って聞こえる。

 

「必要」という言葉には、

どうしても、「何の役に立つのか」という感じが少しくっついてくる。

 

でも、「大切」は違う。

 

何かができるから大切なわけではない。

役に立つから大切なわけでもない。

 

何もしない日があっても、

できないことがあっても、

誰かの役に立っていなくても、

 

大切なものは、大切。

 

祖父から母へ。

母から私へ。

何十年も受け継がれてきた、

「5本の指」の話。

 

もし私が次に誰かへ渡すなら、一つだけ言葉を変えて渡したい。

 

「いらない指はない」から、

「大切じゃない指はない」へ。

 

母から受け取ったものを、全部捨てる必要はない。

そのまま全部、次へ渡す必要もない。

 

自分がいいと思うところは残して、

「私はこっちのほうが好きだな」と思ったところだけ、少し変える。

 

そうやって、次へ渡していけばいい。

 

そして考えてみると、私は折り紙でも、似たようなことをしている。

 

私が3歳くらいの頃、幼稚園で折った折り紙を家に持って帰った。

すると母は、2時間ほどかけて、

開いたり閉じたりできる伝承の「番傘」を折った。

 

そして言った。「このくらいできて、折り紙を折れたと言うのよ」

 

……鬼?

 

3歳児に求めるレベルじゃない🤣

 

そして私は、その番傘を6歳で折れるようになったw

 

でも、6歳で番傘を折れたことより、私の記憶に残っていることがある。

 

折筋が汚かった。

きれいにできなかった。

 

6歳で番傘を折っておいて、そっちを覚えている🤣

 

次は、この「番傘」の話を書いてみようと思う。

 

なぜ、私は今、子どもに折り紙を教えるとき、

「正しく折ること」や「上手に折ること」より先に、

「楽しい」と思ってほしいのか。

 

そして、三角に折っただけの紙を見て、

「これ、何に見える?」と聞きたくなるのか。

 

どうやら、そのあたりにも、

母から受け取って、私なりに少し変えたものがありそうだ。

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